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筑波山神社由緒

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筑波山神社

鎮座地 茨城県つくば市筑波1番地
御祭神 筑波男大神 伊弉諾尊 男体山871mに祀る
筑波女大神 伊弉冊尊 女体山877mに祀る
境内地 筑波山南面を主に海抜270mの線以上370町歩(ha)
祭 日 4月1日 春季御座替祭
11月1日 秋季御座替祭
2月10、11日 年越祭
摂 社 稲村神社(天照大御神)
安座常神社(素盞鳴尊)
小原木神社(月読尊)
渡神社(蛭子命)
境内社 春日神社、日枝神社、朝日稲荷神社、厳島神社、愛宕神社など多数
御神徳 ご祭神の二神は日本人の祖神(おやがみ)として『古事記、日本書紀』にそのご神徳が書かれています。二神が結婚して神々を産み国産みをされたことにより、縁結び、夫婦和合、家内安全、子授け、子育て等のご神徳と、国土経営をなされたことにより、開拓、国家運営、社運隆昌、職場安全、工事安全、交通安全等のご神徳。また、豊作や大漁などの産業面、そして厄除、方位除、心願、安産、進学等の合格祈願などに祖神達の強いご神徳を戴くことができます。

由緒

筑波山は、関東地方に人が住むようになったころから、信仰の対象として仰がれてきました。御山から受ける恵みの数々は、まさに神からの賜物でありました。その山容が二峰相並ぶため、自然に男女二柱の祖神が祀られました。
その後祖神は「いざなぎの神、いざなみの神」と日本神話で伝えることから、筑波の大神も「いざなぎ、いざなみ両神」として仰がれています。

第十代崇神天皇の御代(約二千年前)に、筑波山を中心として、筑波、新治、茨城の三国が建置されて、物部氏の一族筑波命が筑波国造に命じられ、以来筑波一族が祭政一致で筑波山神社に奉仕しました。
第十二代景行天皇の皇太子日本武尊が東征の帰途登山されたことが古記に書かれ、その御歌によって連歌岳の名が残ります。

奈良時代の『万葉集』には筑波の歌二十五首が載せられ、常陸国を代表する山として親しまれたことがわかります。延喜の式制(927年)で男神は名神大社、女神は小社に列しました。

中世以降仏教の興隆につれて筑波山にも堂塔が建ち、小田城主八田知家の末子 八郎為氏が国造の名跡を継いで神仏並立の時代が続きました。江戸時代、幕府は江戸の鬼門を護る神山として神領千五百石を献じました。幕末になって藤田小四郎等が尊王攘夷の兵を起した筑波山事件を経て明治維新となり、神仏が分離されて神社のみとなり、明治6年に県社となりました。

沿革

筑波山神社は坂東無双の名嶽とうたわれた筑波山を境内とし、万葉集に「二神の貴き御山と神代より人の言い継ぎ」と崇められているように、古代山岳信仰に始る国内屈指の古社である。西峯男体山頂(871m)の磐座に筑波男大神(伊弉諾尊)を、東峯女体山頂(877m)の磐座に筑波女大神(伊弉冊尊)を祀る。

山下の南面中腹(270m)に拝殿があり、これより山上の境内地「筑波山」を御神体として拝する古代の形が維持されている。筑波山を御神体と崇めまつる神体山信仰に発し、古来春秋両季に行われる御座替祭に供へまつる神衣(かんみそ)に御神霊を奉遷して御神体となす。筑波山縁起によれば、当神社の創祀は遠く神代に始る。天地開闢の初、諾冊二尊が天祖の詔をうけて高天原を起ち、天之浮橋に並び立ち給う、天之瓊矛(あめのぬぼこ)を以って滄海をかき探り給えば鉾の先よりしたたり落ちる潮凝って、一つの島となる。即ち二神は東方霊位に当る海中に筑波山を造り得て降臨し給い、天之御柱を見立て、左旋右旋して東西御座を替え給い、相対面なされて夫婦となり大八洲国及び山河草木を生み給う。次に日神、月神、蛭児命、素盞鳴尊を生み八百万神を生み給う。記紀に伝える「おのころ島」とは筑波山のことで、この故に筑波山は日本二柱の父母二神、皇子四所降臨御誕生の霊山であり、本朝神道の根元はただ此山にあるのみと伝えている。

また詞林采葉抄は「筑波山といふ名は、天照大神此の山嶺にて紫の筑琴をひかせたまふに、水波の曲に至り、鹿島の浦の波雲に乗って飛び登り、此の山の嶺に着きにたりけり。よりて着波山といふ。しかして琴名によって筑波山といふ」と記し、山麓の小田城中で北畠親房卿が神皇正統記を著した頃、筑波山が父母二神を祭る天照大御神御親祭の貴き斎庭(ゆには)であったと伝える伝承が広く行われてたことを示している。春秋二季の御座替祭の由緒や筑羽子(つくはね)羽子板(はごいた)の起源伝説にも諾冊二尊と天照大御神とが筑波山に密接して語り継がれ、文化年代の筑波山私記にも「土民相伝ふ、日神筑波山に降臨あり、のち伊勢に遷り給うと。此山、日神の御山なりといふこと三歳の小児まで伝説す。史伝・旧記に引証するを待たずして人これを信ず。真の口碑といふべし」と記しているように、筑波山における諾冊二尊と天照大御神の説話は、他社に比類なき神秘に富んだものを伝えている。

常陸風土記は、新嘗の夜に祖神尊が筑波神を訪ね給うた時、筑波神の真心こめた歓待に感激されて、「愛乎我胤(はしきかもわかみこ)巍哉神宮(たかきかもかむみや)天地並斉(あめつちのむた)日月共同(ひつきのむた)人民集賀(ひとくさつどひことほぎ)飲食富豊(おしものゆたかに)代々無絶(よよたゆることなく)日日弥栄(ひにけにいやさかえ)千秋万歳(ちよろづよに)遊楽不窮(たぬしみきはまらじ)」と歓びの御歌を筑波山に斎いこめられたことを伝え、この懐しく優しい筑波神の御許に足柄坂(あしがらのさか)よりの東の老若男女が騎歩登臨して喜び集い「筑波嶺のかがひ」を催して万葉集や古今和歌集に数々の名歌を残した本縁を説いている。更に「筑波岳に黒雲かかり衣袖清国(ころもでひたちのくに)」といふ国俗諺(くにぶりのことわざ)を書き留め万世に伝うべき神授の詞集として、常陸国の国号が、実に筑波山に発していることを教えている。

その後人皇の御代に入って、神武天皇の紀元元年、筑波山神社男体女体両宮が創祀され、崇神天皇の御世早くも筑波国が建置されて采女臣(うねめのおみ)(物部氏)の友族筑波命が国造(くにのみやつこ)に任命された。成務朝の阿閉色命(あべしこのみこと)を経て大化の改新に至るまで、子孫相承けて祭政一致の制に基き世々筑波国造が当神社に奉仕していたが、以後もまた筑波国造の称号を伝承して慶長の世に及んだ。

景行天皇の御代日本武尊の御東征に当り、尊は当山に登拝し給いて連歌嶽の遺跡をとどめ給い、帰途甲斐国酒折宮(さかおりのみや)にて「にひばり筑波をすぎて幾夜かねつる」と御詠あり、連歌の濫觴(らんしょう)をなし給うた。神道歌道もと一つにて、連歌を「つくばの道」と称し、遂には日本独特の俳句を生んでいる。

次いで神功皇后三韓征伐の砌、敵国降伏のために御勅願あり、且つ応仁天皇御懐妊あるを以て安産を祈り給い、御凱陣の後神田を寄せ給うと共に御腹帯を当神社に納め給うた。これ当山の秘社常陸帯(ひたちおび)宮創祀の由緒で、神領民には鹿島神宮祭頭祭、御造営の料を充てることを御勅免あらせられ、鎌倉・徳川の世もまた旧慣により免ざられた。

降って皇極・天武両朝には圭田を奉ぜられて神礼を行はせられ、平安時代を迎えた。即ち嵯峨天皇の弘仁14年正月21日(823)従五位下筑波神、霊験顕著なるを以て宮社に列し(日本後紀巻三)また文徳天皇の嘉祥3年9月26日(850)伊勢神宮、加茂神社に奉幣の時、当神社にも使を遣はして奉幣せられ(続日本後紀)。以来漸次昇叙して清和天皇の貞観13年2月(871)男神を従三位、同16年11月女神を正四位下に叙せられた(三代実録)。更に寛平5年12月(893)両神共に一階を進められ、延喜の制に男神は名神大社に女神は小社に列せられた。

醍醐天皇の延喜5年4月(905)、紀貫之は古今和歌集二十巻を撰上したが、その序に、天皇の御世の長久を「さざれ石にたとへ筑波山にかけて」願ひ、その御聖徳を「広き大めぐみのかげ、筑波山のふもとよりしげくおはりまして、よろづのまつりごとをきこしめす」と述べ、筑波山が天皇の御聖代を象徴する霊山として厚く尊崇されていたことを偲ばせている。

武門の時代、建久二年(1191)源頼朝は安西三郎景益、上総介広常、千葉介常胤、茂木四郎義国等の武将を伴って当神社に参詣、神領を寄進す。弘安太田文に伝う、筑波社五十六町六十歩と。また頼朝の異母弟、八田知家は筑波山麓に小田城を築き、且つ十男筑波八郎(明玄)をして筑波国造の名籍を継がしめ、筑波別当大夫に補しその支族筑波大膳を社司に任じて当神社に奉仕させた。天正18年8月(1590)、徳川家康は江戸城に入城、東北に聳える筑波山を仰いで江戸城鎮護の霊山と崇め、慶長5年9月(1600)関ヶ原の合戦に大勝の後、山司筑波八郎以来の社家筑波氏を悉く追没して家康が厚く帰依していた大和国長谷寺の別当梅心院宥俊を筑波別当に補し、知足院を再興せしめて将軍家の御祈願所と為し、筑波山神社御座替祭を以て江戸城鎮護の神事と定めた。然して慶長7年11月25日(1602)、筑波山神領五百石(大字筑波)を寄進した。

宥俊の弟子二世光誉も家康の信任厚く、慶長15年(1610)江戸白銀町に護摩堂を建てて常府を仰付けられ、慶長・元和の大阪夏冬の陣には陣中に在って戦勝を祈願し、大願成就の後元和2年10月(1616)二代将軍秀忠は当山の社堂伽藍を普請、更に寛永9年(1632)春三代将軍家光は新たに地を相し工を起して筑波山内の社堂伽藍を悉く造営寄進し、同10年11月(1633)工成り輪奐の美を尽くした。次いで五代将軍綱吉は知足院十一世隆光を重用し、貞享元年(1684)護摩堂を湯島に移し、更に元禄元年(1688)神田橋外に地境を倍加して宏荘な護摩堂を建立した。次いで元禄8年9月(1695)筑波山の本坊共々護持院と改称せしめ、元禄3年2月に続いて8年正月に都合千石(大字沼田、大字臼井の二村)を加増したので、筑波山神領は千五百石を算へるに至った。江戸時代の筑波山神領は、伊勢、日光山両神領と共に他に例のない国役金免除の神領となし専ら当神社の奉務の任に当らせた。

宝暦9年(1759)、筑波町南表六丁目入口の石鳥居の再建が成り、同11年正月(1761)「天地開闢筑波神社」の勅願を掲げることを幕府に奏請したが、後桜町天皇御幼少のため代わって嵯峨宮の御染筆があり、同13年11月(1763)この筑波山の由緒を語る神領を掲揚した。降って元治元年3月(1864)に水戸浪士藤田小四郎、田丸稲之右エ門等が筑波山に集結し、護持院本坊に本陣を置いて筑波義挙の兵を挙げ尊王攘夷を天下に呼号して維新回天の魁となったのも故なしとしない。

明治元年10月(1868)神仏混淆禁止の太政官布達があって、筑波山では護持院を廃して旧に復し、明治2年9月(1869)神祗大副伯の実弟白川資義が筑波山神社の祭主に任じられた。明治4年11月17日(1871)、明治天皇が大嘗祭を東京で行はせられた時、筑波山の日蔭蔓(ひかげのかづら)が御用命になった。これは実に古今和歌集以来の歴史の幸せであった。明治6年10月4日(1873)県社に列し、同8年(1875)中禅寺本堂跡地に現拝殿を造営して現在の規模を整えたのである。

筑波山の生い立ちとその姿

筑波山は一億年以上も古い時代に、海底に積もった地層に班れい岩、花崗岩のマグマがあいついで貫入し、その後の地殻変動によって持ち上げられ、山塊となってから風雨による侵食や風化によって堆積物が削りとられたものです。従って硬い班れい岩を頂上部に、花崗岩を基部にした現在の形となりましたが、それでもまだ微妙な変化を続けています。
この山を覆う数多い植物は、寒冷期に北から下がってきた冷温帯の植物であるブナ林を山頂部に冠のように残し、山麓部分には暖温帯の常緑広葉樹林が広がるという、きわめて多彩な姿となっています。しかし、地球の温暖化が進めばブナ林が生存できなくなるかも知れません。筑波山は北は足尾、加波の山波に、東と南は筑波連峰の起伏につながり、西は肥沃な平野が広がります。この西麓も古代には豊の海という古霞ヶ浦に続く入海があって縄文海進とされ、その名残りを貝塚や地名に見ることができます。

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